イラスト:新倉サチヨ
ふとした瞬間に、昔すごく好きだった人の面影や言葉が頭をよぎることがありませんか。
胸の内にしまっておいてもいいけれど、その人を美化しすぎたり悲しみが恨みに変わったりすると心が不安定になりかねません。美しくも苦しい強烈な恋の記憶は「博物館」に寄贈してしまいましょう。当館が責任を持ってお預かります。思い出を他人と一緒にしみじみと鑑賞すれば、気持ちが少しは晴れるでしょう。ようこそ、失恋ミュージアムへ。
31歳で中途入社。自社製品もっと学びたくて同僚に「先生」になってもらったら……
「彼のことを恨みました。すごく。私、人殺しになっちゃうかも、と思ったこともあります。でも、時間をかけて彼を『いない人』にしていったんです」
都内で派遣社員をしている村山美里さん(仮名、44歳)の手痛い失恋話を聞いている。昼間は事務職としてフルタイムで働き、土日はスーパーのレジ係としてアルバイトしている美里さん。疲れで体調を崩しながらも、貯金の目標に向けてがんばっているらしい。祝日の日中に時間を作ってもらった。
美里さんには離婚歴がある。といっても、25歳からの2年間の結婚生活で子どもはいなかった。今回の失恋ネタである6年間の不倫と比べれば、「思い出したくないけれど消えない」ほど苦い記憶ではない。
2歳年上の啓介さん(仮名)と付き合い始めたのは美里さんが34歳のとき。結婚するならば「待ったなし」の年齢である。一般的には35歳以上での妊娠・出産は難しいとされるため、結婚相談所や婚活アプリを利用する男性は自分の年齢にかかわらず、「35歳未満の未婚女性」を検索条件に入れることが多いからだ。再婚願望がある美里さんは当然知っているはずなのに、なぜ既婚者の啓介さんと一線を越えてしまったのだろうか。交際を始めるまでの3年間は親しい同僚に過ぎなかったと美里さんは振り返る。
「その頃、私は北陸地方に本社がある化学メーカーの正社員として働いていました。営業事務の仕事です。中途で入社したこともあって、自社製品や化学についてもっと学びたいと思っていました。技術畑から営業部に移ってきた彼は知識が豊富で、仕事もできる人です。私から申し出て、先生になってもらうことにしました」
職場でモテる男性の典型。柔らかいけど芯があり、ときどき面白いことを言う
美里さんによれば、啓介さんの第一印象は「図体は大きくて、あまりしゃべらない人」という地味なもの。しかし、彼はとにかく仕事ができる。顧客に対して誠実でありながらも、ぬかりなく営業をして実績を上げている。「柔らかいけど芯がある」男性なのだ。寡黙だけど頭はいいので周囲の人が話していることをよく聞いて理解して、ときどき面白いことを言う。職場でモテる男性の一典型と言えるだろう。
最初の3年間は「兄と妹」みたいな関係だったと美里さん。製品や業務について教えてもらいながら、一緒に食事をすることもあった。仲はいいけれど恋愛感情はない関係性が変わるきっかけとなったのは啓介さんのある告白だった。
「飲んでいるときに、初めてプライベートの話になったんです。『妻とは10年近くもセックスレスだ』と言われてびっくりしました。ちょうど私も彼氏と別れ話をしていた時期だったので、啓介さんのことが気になり出してしまいました」
数か月後、「ノリで」ホテルに誘ったのは美里さんのほうだった。啓介さんは久しぶりのセックスが嬉しかったのかもしれない。美里さんとの男女関係を深めるようになり、「妻とは別れるから、もうちょっと待ってほしい」と言い出した。
「それまでの私は既婚者と付き合うことなんてあり得ませんでした。既婚者に言い寄られたりすると嫌悪感を覚えていたぐらいです。そんな私がなぜ彼にハマったのかと言えば、『妻とは別れる』という言葉を信じてしまったからだと思います」
「実はまだ離婚話が進んでいない。もう少し待ってほしい」と言われ続けた
啓介さんが離婚届を出すと約束したのは2か月後。それまで会わなければいいのだが、美里さんは啓介さんとの交際を続けてしまった。「都合のいい女」になってしまうパターンである。惚れた弱みと言えるかもしれない。
「離婚届を出すと約束していた日にも連絡はありませんでした。私のほうから連絡したら、『実はまだ妻と話が進んでいない。もう少し待ってほしい』と言われたんです」
翌年になって美里さんは勝負に出た。美里さんの家で啓介さんが寝ているすきに、彼の携帯からその妻に電話をしたのだ。わかりやすい修羅場である。
「私から事情を説明して、離婚の話はどうなっているのかと聞いたんです。当然、怒られるだろうと緊張しました。でも、奥さんは『あー、そうなんですか』と淡々とした様子。一時期は離婚するかしないかでもめたそうですが、最近はそんな話はしていないとのことでした」
夫と一緒に寝ている女性からの電話への対応とは思えない。啓介さんによれば、奥さんは啓介さんの母親と姉との仲が極めて良く、「あなたとは別れてもお義母さんたちとは離れたくない」と言っている。離婚後ならばそんな関係もありだろう。しかし、啓介さんは母親が敷いたレールから外れたことは一度もない男性だ。母親も離婚を望んでいないことから妻とはいつまでも別れられずにいた。
「私はショックでベッドから起き上がれず、食事もできずに休職してしまった時期もありました。そんなときも彼はうちに来るんです。心細かった私も彼を待ってしまいました。よく一緒に料理をしてましたね。彼は麺類が好きだったので、うちの狭いキッチンでうどんやそばを作って食べました」
「自分が好きな人を信じたい』という思いから抜け出せなかった
苦しくも甘い思い出である。結婚生活を思い描いてしまうのも無理はない。実際、今後のことが話題になると、啓介さんは「結婚しよう。妻とはもう別れる」と繰り返していたのだ。
しかし、いつまで経っても実行しようとはしなかった。業を煮やした美里さんの提案で3人で話し合ったこともあるが埒が明かない。妻も美里さんも啓介さんを捨てられず、啓介さんもどちらかを取るとは言わないからだ。
「私は彼と結婚したかったんです。彼にもそう言ってもらっていたので、『自分が好きな人を信じたい』という思いから抜け出せなくなっていました。まさに泥沼です」
沼から抜け出せずに苦しんでいた美里さんを助けてくれたのは実の母親だった。不倫をしている娘を責めず、大人として彼に会ってくれたのだ。そして、娘のことをどうするのかを決めてほしいと啓介さんに伝えた。
「彼は母にも嘘をついたんです。その場では『娘さんと一緒になる方向でちゃんと考えている』と言ったのに、数日後になって『やっぱり妻とは別れません』と電話があったそうです。さすがに母もすごく怒っていました」
彼を恨み続けているのは自分自身を許していないということ
そして、美里さんが「私、人殺しになっちゃうかも」とまで追いつめられる出来事が起こる。啓介さんが北陸地方の本社に異動になったのだ。妻は当然のようについていかず、啓介さんは単身赴任。なんと美里さんに「近くにいてほしい」と頼んできたのだ。
「ようやく私と一緒になってくれるんだ、と嬉しくなってしまいました」
美里さんは8年も勤めた会社を辞めて、彼が赴任した地域に引っ越して近所で暮らし始めた。しかし、啓介さんは1年も経たずして東京に戻ることが決まる。美里さんは見ず知らずの土地に一人残されることになった。
「彼からは『妻とは別れられないことになった』と言われて、それを最後に連絡が取れなくなってしまいました。その地域には私が長くできるような仕事もないので、仕方なく東京に戻ったんです。あの頃は、彼のことを殺してやりたいと思うほど憎みました」
深く傷ついた美里さんの味方になり続け、優しく諭してくれたのもやはり母親だった。多くは語らず、「恨むな」「憎むな」と美里さんに言い続けたのだ。
「最初は意味がわかりませんでしたが、私なりに考えました。彼のことを恨み続けているうちは自分自身を許していないということなのかな、と少しずつ納得していったんです」
現在の美里さんは笑いながら当時の思い出を話せるほどに回復した。啓介さんを許したというよりも、彼を一生懸命に愛して傷ついた自分を受け止められるようになったからだと思う。
啓介さんは悪人とは言えない。しかし、母親をはじめとする他者と自分の人生を区別して一人で歩む勇気がない。それは大人として致命的な弱さと言えるだろう。もし美里さんと結婚していたとしても、その弱さゆえに同じような過ちを繰り返していたと思う。苦しみながらも決別できたのは不幸中の幸いである。
今、美里さんは前を向いて仕事と婚活に精を出している。彼女の生活はこれから明るさを増していくはずだ。
※登場人物はすべて仮名です。
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大宮冬洋(おおみやとうよう)
1976年埼玉県所沢市生まれ、東京都東村山市育ち。一橋大学法学部卒業後、ファーストリテイリング(ユニクロ)に入社するがわずか1年で退社。編集プロダクション勤務を経て、2002年よりフリーライター。
2012年、再婚を機に愛知県蒲郡市に移住。自主企画のフリーペーパー『蒲郡偏愛地図』を年1回発行しつつ、8万人の人口が徐々に減っている黄昏の町での生活を満喫中。月に10日間ほどは門前仲町に滞在し、東京原住民カルチャーを体験しつつ取材活動を行っている。読者との交流飲み会「スナック大宮」を、東京・愛知・大阪などで月2回ペースで開催している。
著書に、『私たち「ユニクロ154番店」で働いていました。』(ぱる出版)、『人は死ぬまで結婚できる~晩婚時代の幸せのつかみ方~』(講談社+α新書)などがある。
公式ホームページ
https://omiyatoyo.com
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