イラスト:新倉サチヨ
ふとした瞬間に、昔すごく好きだった人の面影や言葉が頭をよぎることがありませんか。
胸の内にしまっておいてもいいけれど、その人を美化しすぎたり悲しみが恨みに変わったりすると心が不安定になりかねません。美しくも苦しい強烈な恋の記憶は「博物館」に寄贈してしまいましょう。当館が責任を持ってお預かります。思い出を他人と一緒にしみじみと鑑賞すれば、気持ちが少しは晴れるでしょう。ようこそ、失恋ミュージアムへ。
人生で一番泣いた数日間。キッチンハイターを飲んで自殺を図った
「婚約破棄をされた直後は、本当に辛かったです。人生で一番泣いたと思います。ちょうど友だちが子どもを産んだり結婚したりすることが重なった時期だったので、ますますみじめな気持ちになりました。死にたかったです。駅で電車に飛び込もうと思ったこともあります。キッチンハイター(塩素系洗剤。有毒)も飲みました。たまらずに吐いて死なずに済みましたけど……」
愛知県内のフレンチレストランに来ている。太陽光がよく入る明るい店で、店主が腕によりをかけて料理を作ってくれる。ランチコースのサラダをおいしそうに食べながら、半年前の苦しい思い出を語ってくれるのは県内で働いている井川真弓さん(27歳)。すでに新しい恋を見つけていて、真弓さんは心穏やかになりつつある。だからこそ、辛い記憶は失恋ミュージアムで預かりたい。
元婚約者の太一さん(35歳)と出会ったのはマッチングアプリだった。丁寧なメッセージ付きでアプローチされ、家も比較的近所だったので会うことにした。
「彼は公務員で、目が細くて鼻が高いので公家みたいな外見です。ブランド物のスーツをたくさん持っていて、清潔感があってしっかりしていると感じました」
真弓さんは以前に合コンで知り合った「チャラい人」と交際し、セフレのような扱いを受けた過去がある。いろんな人と遊ぶことは好きだが、浮気はしたくもされたくもない。早く結婚して子どもも作りたい。焦り始めていた真弓さんにとって、太一さんはぜひ真剣交際したい相手だった。
身勝手すぎる彼。家事はせずに生活費は折半する驚愕の理由
太一さんのほうも積極的で、3回目のデートで真弓さんをホテルに誘った。結ばれた後、真弓さんは彼に確認した。自分たちは交際をしているという認識で良いのか、と。太一さんの答えは意外なものだった。
「もっと髪を長く伸ばして、服をオシャレにしてくれれば付き合ってもいいよ」
やや子どもっぽくて上から目線の回答である。しかも、太一さんが指定したブランド服はブラウスだけで3万円ほどする。20代にはやや高価なブランドだが、プレゼントしてくれるわけではなかった。
「私は彼のことが好きになっていたし、結婚にも焦っていました。だから、『善処します』と言って無理してしまったんです。今から振り返ると間違いの始まりでした」
真弓さんは彼好みの外見になろうと努力し、数週間後には太一さんと付き合うことができた。2017年の冬のことだ。
ちょうど真弓さんは転職をして、一人暮らしの部屋を引っ越すことを考えていたタイミングだった。結婚を前提に同棲することを提案すると、太一さんは「いいよ」と快諾。しかし、年明けから新築のマンションで二人暮らしを始める前から不穏な空気が流れ始めた。
「家賃は9万5千円でしたが、私が5万円を出し、水道光熱費を含めた生活費はきっちり折半するように彼から言われました。理由は、私は会社から住宅手当が出るから。それっておかしくないでしょうか……」
太一さんは仕事で忙しいことを理由にして家事を全くせず、帰宅は常に夜10時過ぎ。真弓さんが用意した夕食を手につけず、コーヒーだけ飲んで寝てしまうこともあった。3ヶ月後、真弓さんは不満を爆発させる。
「家事は全部私がやって、せっかく作った料理も食べてくれない。それでお金だけ折半するのはフェアじゃない」
その抗議を聞いた太一さんはまたしても独特な理屈から反論をした。
「キミはいずれ妊娠して産休に入る。そのときは仕事も家事もできないだろう。だから、今がんばるのは当然。産休中は僕が家事をやらざるを得ないし、キミのお金は2割負担でいいよ」
真弓さんは絶句した。まさか将来の産休を持ち出して反論するとは思わなかった。しかも、産休中も「2割負担」を要求するのか。愛情がまったく感じられない。
職場には結婚報告済み。違和感を抱えたまま突き進むしかなかった
今思えば、太一さんは外見はいいけれど他人を思いやることはできない人物だった。真弓さんと同棲するまでは母親と二人暮らしだったが、その母親を「何もできない人」だとあからさまにバカにしていた。進学した大学が東京だったという理由で友だちはほとんどいない。平日はずっと職場にいて、休日は一人で買い物をしている。
「唯一、私に会わせてくれた友だちはとても感じの悪い人でした。私をバカにしたような目で眺めて、『本当に結婚するんだね~』なんて。祝いの言葉もありませんでした」
このまま結婚しても、いずれ離婚することは目に見えている。真弓さんはなぜ引き返さなかったのか。
「友だちに相談したら、みんなから結婚はやめるように言われました。でも、職場にも結婚報告をして式場も押さえてしまったので、突き進むしかないと思ったんです」
筆者も離婚経験者なので真弓さんの気持ちは少しわかる気がする。後から振り返ると、違和感を覚えることはたくさんあった。でも、周囲から止められるたびに意固地になってしまうのだ。間違いを認めて改めるのは恥ずかしいし面倒臭いし怖い。何も考えずにこのまま進めばなんとかなるかもしれない――。
こんな思惑が頭の中に満ちて、現実に目をつむり、自分で拓いたはずの道を引き返せなくなってしまうのだ。撤退するにはよほどの勇気と決断力が要る。20代半ばの人にそれを求めるのは酷だと思う。
自らを省みる余裕があるのは、新たな恋が始まっているから
驚くことに婚約破棄をしたのは太一さんのほうだった。理由は「家に帰って来て他人がいると気疲れする」「母親からも叱られたことがないのにケンカするのが嫌」などだ。再考の余地はないという。真弓さんが自殺を考えるほど精神的に追い込まれたのは冒頭に記した通りだ。
真弓さんは若くて健康な女性だ。仲の良い家族や友人の支えもある。婚約破棄から半年ほど経った今では、自分の過ちを言葉にして反省できるまでに回復している。
「周りが次々に結婚していて、自分だけ売れ残ってしまうと焦ったのが良くなかったのだと思います。冷静に考えてみると、あの人とは価値観が違いすぎました。お金の面はケチすぎるし、家族に対しても冷たいし、食事を楽しもうとしません。職業や外見だけで男性を判断してはいけなかったんですね。おかげで強くなり、相手にあまり期待しなくなりました。これがいいことなのかわかりませんけど……。」
自らを省みる余裕があるのは、新たな恋が始まろうとしているからだと思う。今度の相手も太一さんと同じく公務員。ただし、太一さんと違って思いやりのある男性で、何よりも真弓さんに対して真っ直ぐな好意を示している。
「イルミネーションを観に行く約束をしています。『楽しみだね』とLINEしたら、『オレのほうがもっと楽しみにしているよ』なんて可愛い返信をくれました」
男の人から愛されることに慣れていないと明かす真弓さん。戸惑いながらも喜びを隠せない様子だ。来年の春には、太一さんのことなどはすっかり忘れて幸せな生活を送っている気がする。
※登場人物はすべて仮名です。
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大宮冬洋(おおみやとうよう)
1976年埼玉県所沢市生まれ、東京都東村山市育ち。一橋大学法学部卒業後、ファーストリテイリング(ユニクロ)に入社するがわずか1年で退社。編集プロダクション勤務を経て、2002年よりフリーライター。
2012年、再婚を機に愛知県蒲郡市に移住。自主企画のフリーペーパー『蒲郡偏愛地図』を年1回発行しつつ、8万人の人口が徐々に減っている黄昏の町での生活を満喫中。月に10日間ほどは門前仲町に滞在し、東京原住民カルチャーを体験しつつ取材活動を行っている。読者との交流飲み会「スナック大宮」を、東京・愛知・大阪などで月2回ペースで開催している。
著書に、『私たち「ユニクロ154番店」で働いていました。』(ぱる出版)、『人は死ぬまで結婚できる~晩婚時代の幸せのつかみ方~』(講談社+α新書)などがある。
公式ホームページ
https://omiyatoyo.com
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