イラスト:新倉サチヨ
ふとした瞬間に、昔すごく好きだった人の面影や言葉が頭をよぎることがありませんか。
胸の内にしまっておいてもいいけれど、その人を美化しすぎたり悲しみが恨みに変わったりすると心が不安定になりかねません。美しくも苦しい強烈な恋の記憶は「博物館」に寄贈してしまいましょう。当館が責任を持ってお預かります。思い出を他人と一緒にしみじみと鑑賞すれば、気持ちが少しは晴れるでしょう。ようこそ、失恋ミュージアムへ。
出会いは心理カウンセリングの勉強会。佐々木蔵之介似の男性に恋をした
「失恋して3日後に寂しくてちょっとだけ泣きました。でも、付き合ってのめり込む前のことだったので、傷が浅いうちに手を打っちゃったなと思っています」
千葉県内にある魚料理が有名な居酒屋で、保育士の井上千恵さん(40歳)と語り合っている。千恵さんの表情は晴れやかで、3週間前に失恋したとは思えない。いったいどんな恋愛だったのだろうか。
「私は8年ほど前から心理カウンセリングの勉強を続けています。月に1回の勉強会です。毎回15人ぐらいが受講しています。受講生の男性は素朴でいい人が多いのですが、外見はムサくて、女の人に話しかけられない人がほとんどです。今年の春に初めて会った弘樹さんは雰囲気が違いました」
神奈川県でシステムエンジニアをしている弘樹さん(39歳)は、格闘技が趣味のさっぱりした顔立ちの男性だ。千恵さんによれば、俳優の佐々木蔵之介に少し似ているらしい。しかも、話しやすい。独身であり恋人もいないようだ。
「歩く食べログ」と言われるほど飲食好きの私。彼に胃袋もつかまれました
千恵さんもオープンな雰囲気の女性である。翌月の勉強会で再会したときに、弘樹さんのほうから「連絡先を交換しませんか」と言ってくれた。以前は積極的に婚活をしていた千恵さんがこの掘り出し物を見逃すはずがない。
「これは脈があるかも、と思いましたね。毎日のようにLINEでやりとりをして、月2回ぐらいは食事に行っていました。神奈川と千葉ではちょっと遠いのですが、彼は千葉にある道場に通っていたので好都合でした」
デートを重ねるにつれて、千恵さんの弘樹さんへの好意は深まった。一番の理由は、彼も食べ物に強い興味があることだ。
「私は友だちから『歩く食べログ』と言われるぐらい外食が好きです。道は食べ物屋さんへの行き方で覚えています。弘樹さんは私が行きたい店にも付き合ってくれたし、いろいろ調べてくれてメキシコ料理店に行ったりもしました。私、胃袋をつかまれたんです」
余談になるが、筆者も食べることが大好きなので千恵さんの気持ちはわかる。肉じゃがのような家庭料理で「胃袋をつかまれたい」のではなく、日本酒やワインにも合うような料理を一緒にゆっくり楽しめる相手がほしい。現在の妻への尊敬と愛情が高まったのは、交際中に彼女が手早く作ってくれたイカの塩辛と豚しゃぶだった。
結婚8年目になる今、男と女がやるべきことは「晩酌」に尽きるのではないかと思っている。日中はそれぞれ懸命に働いて、夜になったら食事を共にするのだ。その日に起こったことや、共通の友人知人についてあれこれとしゃべりながら。途中で風呂に入り、酒を入れ替えて、テレビを見ながらの2次会。遅くとも23時には寝てしまう。おしゃべりと飲食が好きな人間にとっては、日々の晩酌がささやかだけど最大の喜びなのである。
毎日LINE、月2でデート。だけど「友だちとしてしか考えられない」
千恵さんと弘樹さんの話に戻そう。彼らは食の好みが一致しただけでなく、「他人には言えないようなこと」を明かし合える関係性でもあった。
「2人とも心理カウンセリングを勉強しているので、深い話をしたり聞いたりすることができたのだと思います。私は10年前に離婚をしたことを話し、彼は幼い頃に親の宗教の関係で抑圧されていたことを話してくれました。だからこそ、格闘技に打ち込んで自活しているのだそうです」
千恵さんは弘樹さんの女性関係も確かめた。以前に会社の後輩女性に好意を寄せていたが、連絡があまり取れず、「見込みなし」とあきらめているという。そうですか。私のことはどう思ってる? 私はあなたのことが好きだよ。
「会っているときに何度も匂わせましたが、はぐらかされたんです。最終的にはLINEで確認してしまいました。『私と付き合いますか?』と。そうしたら、『友だちとしてしか考えられない。でも、一緒に食事をしたいし、また会いたい』と返されたんです。なんだよ~。とっても思わせぶり、ですよね……」
付き合う前だったので傷は浅いと話す千恵さんだが、弘樹さんとのやりとりを振り返って気持ちが高ぶったのだろう。筆者の前で「思わせぶり!」と3回ほど繰り返した。筆者も独身時代は同じような行為をしたことがあるので、弘樹さんに替わって謝っておきたい。ごめんなさい。
なぜ思わせぶりになってしまうのか。そして、関係性を深めることができないのか。他人が恋しいけれど怖いという二面性があるからだと思う。一人では寂しいので、楽しくデートできる相手は確保しておきたい。でも、自分に特別な好意を持ってくれると急に色あせて見える。この人でいいのか?と不安になり、責任を持てないという恐れも感じる。
「彼は誰かと長くお付き合いしたことはないそうです。一見、人当たりがいいのですが、踏み込むとサラッと逃げることを繰り返しているのでしょう」
30代半ばを過ぎてから、ちゃんと交際をする前に恋が終わってしまいます
千恵さん自身は、男性と比較的長く付き合うことに慣れている。学生時代から6年間付き合っていた男性と26歳のときに別れ、その2年後に山登り仲間と結婚。しかし、彼の精神的な病気が原因で約2年で生活が崩壊してしまった。
「丈夫な山男だったのですが、睡眠時間を削られるハードワークが続いた数カ月間で心を病んでしまったんです。日に日に弱っていきました。心理カウンセリングの勉強を始めたのは離婚がきっかけです。自分も相手も精神的に健康で生きることが根本になければダメだ、と思っています」
現在、千恵さんは公立の保育園に転じるために公務員試験を受験中だ。恋愛や結婚から距離を置き、「さらなる安定」を目指すことが自らの精神的な健康につながっていると感じている。
「以前は付き合ってから結婚するまでがハードルだったのですが、30代半ばを過ぎてからはお付き合いをする前に恋が終わってしまうことが多くなりました。最後にちゃんと付き合ったのは3年前ですが、別れ際に『オレじゃなくて子どもが欲しいんでしょ』なんて言われたんです。職業柄、子ども好きだと思われがちなのは知っていましたけど……。最近は、相手にわずらわしく思われるぐらいならば恋愛はもういいや、とあきらめつつあります」
少しせつない決意だが、人生にはそんな時期も必要なのだと思う。そして、フラットな気持ちだからこそ見えて来ることもある。
「弘樹さんともまたどこかで会ったら普通に話せるのに、と思っています。付き合うのかどうかという目線ではなく、勉強仲間としてまた会ってみたいです」
気持ちを切り替えて再会したら、今度は弘樹さんのほうが千恵さんに夢中になるかもしれない。そのときはビシッと言ってあげてほしい。「思わせぶりな人は嫌いです。私と付き合いたいならはっきり言ってください」と。
※登場人物はすべて仮名です。
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大宮冬洋(おおみやとうよう)
1976年埼玉県所沢市生まれ、東京都東村山市育ち。一橋大学法学部卒業後、ファーストリテイリング(ユニクロ)に入社するがわずか1年で退社。編集プロダクション勤務を経て、2002年よりフリーライター。
2012年、再婚を機に愛知県蒲郡市に移住。自主企画のフリーペーパー『蒲郡偏愛地図』を年1回発行しつつ、8万人の人口が徐々に減っている黄昏の町での生活を満喫中。月に10日間ほどは門前仲町に滞在し、東京原住民カルチャーを体験しつつ取材活動を行っている。読者との交流飲み会「スナック大宮」を、東京・愛知・大阪などで月2回ペースで開催している。
著書に、『私たち「ユニクロ154番店」で働いていました。』(ぱる出版)、『人は死ぬまで結婚できる~晩婚時代の幸せのつかみ方~』(講談社+α新書)などがある。
公式ホームページ
https://omiyatoyo.com
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